馬碑(輜重兵第5連隊)

輜重兵第5連隊
   昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵営
   西南太田川沿いに建立された。

   昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆
   投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士
   が犠牲になった。
   その中で、馬碑は熱風を受けながらも
   唯一残った。

   昭和五十七年、廣輜会 原隊の戦友会
   により、隊跡馬碑と表示、復元された。

自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。 軍馬は日本各地より徴発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、輓、駄馬 として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
 戦場に於いて、四肢の蹄に鉄をつけて保護され、車を輓き、また鞍上に 百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
 蹄鉄は「馬の命」、行動中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、 次の休止時に予備鉄を装着した。
 戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷 やし看病し続けた。兵にとって馬は正に戦友であった。  数次の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除 と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員出来なかった。

初年兵時代、「馬 三百円、お前等は一銭五厘で幟をたててやってくる!」 と古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章 にある星の数で見分けるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
 尚 、馬は「活兵器」として大事に扱われた。

戦後六十年を経て、戦友は八十路を越え、健在者僅少となり、茲に輜重兵 第五聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、 戦友の浄財と靖国神社の助成に依り、付帯施設を新設した。

平成十八年
元中支派遣
第三十九師団輜重隊
第百三十二師団輜重隊

有富部隊戦友会

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