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野砲兵第五聯隊は 明治十一年四月 広島に創設された
日清戦争から太平洋戦争に至るまで幾多の戦争に国家民族の興隆発展を祈念しつつ出動し一身を犠牲にした
昭和二十八年 終戦とともに数々の思い出を残し 六十九年の歴史の幕を閉じた
ここに 聯隊跡碑を建立し 亡き戦友と戦禍に斃れた多くの人々の御霊を慰める
昭和五十九年十二月 建立
平成六年八月 改刻
元野砲兵第五聯隊 生存者一同
第十二旅団望部隊、第六十四師団開部隊 献納(護国神社)
中支派遣独立混成第十二旅団望部隊は昭和十四年四月を以って江蘇省蘇州に於て編成せら
れ同十八年六月揚州に於て第六十四師団開部隊に擴充改編されたが旧第五師団管下の将兵
を主軸としている本部隊は昭和二十年八月終戦を迎えるまで揚子江湘江を中心として江北
湖南等の各地に轉戦し赫赫たる戦果を挙げたのである但この間将兵合せて三千九百七十四
柱の戦歿者を出したことは洵に哀惜に堪えない次第である茲に部隊生存者一同は遺族と相
謀り戦後の物故者をも併せてその功績を称え華表一基を建立して永くその偉功を顕彰し以
て後世に伝えるものである。
昭和四十八年一月吉日
元 望部隊・開部隊 生存者一同
文学博士 池田末利 撰
桂園 井上政雄 書 施工者 加計町 吉村政一石材店
昭和四十八年一月吉日
元 望部隊・開部隊 生存者一同
文学博士 池田末利 撰
桂園 井上政雄 書 施工者 加計町 吉村政一石材店
中国軍管区司令部 防空作戦室
中国軍管区司令部跡(Wikiペディア) / 関連サイトへ
爆心地から約790メートル
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。
写真説明:被爆後の防空作戦室周辺、 1945年10月 米軍撮影
爆心地から約790メートル
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。
写真説明:被爆後の防空作戦室周辺、 1945年10月 米軍撮影
中国軍管区司令部 第59軍司令部跡
中国軍管区司令部跡(Wikiペディア)
爆心地から約400~1,300メートル
本土決戦に備え、1945(昭和20)年6月には広島城本丸に中国軍管区司令部・第59軍司令部が置かれ、広島城内堀の外周には、隷下の補充隊や師団司令部などが存在していた。各部隊の建物は1945(昭和20)年8月6日、原爆の爆風により瞬時に崩壊し、火災に包まれて灰燼(じん)に帰した。
写真説明:広島城とその周辺部 撮影・米軍
本土決戦に備え、1945(昭和20)年6月には広島城本丸に中国軍管区司令部・第59軍司令部が置かれ、広島城内堀の外周には、隷下の補充隊や師団司令部などが存在していた。各部隊の建物は1945(昭和20)年8月6日、原爆の爆風により瞬時に崩壊し、火災に包まれて灰燼(じん)に帰した。
写真説明:広島城とその周辺部 撮影・米軍