旧陸軍兵器支廠
広島陸軍兵器補給廠(Wikiペディア)
明治27年に勃発した日清戦争をきっかけに広島は軍事都市としての性格を強め、市内に多くの軍事施設が設置され、この地にも兵器支廠(軍用倉庫)11棟の2階建レンガ造群などが
建設されました。
昭和20年8月6日、原爆に被災したものの、比治山の陰で建物に大きな被害はなく、臨時救護所として罹災者の救護が行なわれました。 戦後は、広島県庁などに、その後、広島大学医学部に移管されましたが、施設整備の拡大に伴なって次々に姿を消しました。 最後の1棟となった11号館は、医学部創立30周年記念して設置された医学資料館などとして利用され続けて来ましたが、新病棟の整備に伴ない平成11年3月に取り壊されました。
この建物が大正初期の建造物であり、広島市被爆建物等保存・継承建物であったことから、新しく医学資料館を建設するにあたり、玄関を中心としたレンガ壁及びほとんどの 石材は11号館に使用されていたものを利用し、外観はほぼ完全な形で復元しました。
昭和20年8月6日、原爆に被災したものの、比治山の陰で建物に大きな被害はなく、臨時救護所として罹災者の救護が行なわれました。 戦後は、広島県庁などに、その後、広島大学医学部に移管されましたが、施設整備の拡大に伴なって次々に姿を消しました。 最後の1棟となった11号館は、医学部創立30周年記念して設置された医学資料館などとして利用され続けて来ましたが、新病棟の整備に伴ない平成11年3月に取り壊されました。
この建物が大正初期の建造物であり、広島市被爆建物等保存・継承建物であったことから、新しく医学資料館を建設するにあたり、玄関を中心としたレンガ壁及びほとんどの 石材は11号館に使用されていたものを利用し、外観はほぼ完全な形で復元しました。
旧陸軍糧秣支廠建物(郷土資料館)
宇品陸軍糧秣支廠(Wikiペディア)
関連サイトへ
現在広島市郷土資料館として利用されているこ
の建物は、明治44(1911)年竣工の旧陸軍糧秣廠
のかんづめ工場を改修したもので、外壁は当時の
ものがそのまま保存されています。
(広島)市内に残る他の明治時代の煉瓦造建築に
比べ、外壁の控壁や庇部分の細かな造形に工夫が
見られ、重厚な美しさを感じさせます。煉瓦は現
在のものよりやや大きめで、すべて国産のものを
用いており、長辺と短辺を交互に積む「オランダ
積み」で積まれています。また、屋根は今回の改
修で鉄板を銅板に改めているものの、当時の「瓦
棒葺」の工法で復元されているまど明治時代の洋
風煉瓦建築を理解するうえで貴重なものです。
明治27(1894)年の日清戦争の際、広島は、同年 の山陽鉄道の開通や宇品港の存在などを背景に、 大陸派兵基地として重要な役割を果たしました。 これを直接のきっかけに、広島は軍事都市として の性格を強め。明治31(1898)年の軍用水道を手 始めに、市内に数多くの軍施設が建設されました 。この建物もそのうちのひとつです。
また、現在の建物中央部には、原爆の風圧によっ て曲げられたものと思われる2本の鉄骨が保存され ています。原爆投下直後には被災者の臨時収容施 設にもなっていたこの建物は、被爆の歴史を語る 貴重な証人でもあります。
昭和62年3月 広島市教育委員会
明治27(1894)年の日清戦争の際、広島は、同年 の山陽鉄道の開通や宇品港の存在などを背景に、 大陸派兵基地として重要な役割を果たしました。 これを直接のきっかけに、広島は軍事都市として の性格を強め。明治31(1898)年の軍用水道を手 始めに、市内に数多くの軍施設が建設されました 。この建物もそのうちのひとつです。
また、現在の建物中央部には、原爆の風圧によっ て曲げられたものと思われる2本の鉄骨が保存され ています。原爆投下直後には被災者の臨時収容施 設にもなっていたこの建物は、被爆の歴史を語る 貴重な証人でもあります。
昭和62年3月 広島市教育委員会