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宇品の御幸松

宇品島南端信号塔

 ここに、旧陸軍広島運輸部が建設した信号所があった。
 戦後、第六管区海上保安本部が灯台に改造したが、建物、機器類の老朽化が著しいため に昭和46年3月この灯台を新設した。

宇品線跡

 宇品線は、宇品港が軍用港としてクローズアップされた日清戦争時の明治27年に山陽本線 の完成に併せて敷設された旧陸軍の軍事輸送専用線で、明治39年3月制定の鉄道国有法に より国鉄に移管されたものです。広島―宇品館5.9kmを着工からわずか16日間で完成。さら に、拠点の広島駅には軍用列車の引込線が整備され、終点の宇品駅には陸軍運輸部宇品支 部が設けられました。
 太平洋戦争が始ると、兵士や兵器を積み込んだ軍用列車が夜昼なく30分おきに入るほど、 慌しい毎日でした。宇品駅の軍用ホームが560mと当時としては日本一の長さを誇ってい たことからも、宇品線の果たした役割の大きさをうかがうことができます。
 広島に原爆が投下された昭和20年8月6日には、宇品―南段原間を3往復し、約3,000人の負 傷者を宇品凱旋館に収容しました。
 軍用線の役割を終えた戦後は、貿易港として生まれ変わった広島港の動脈として、地域住 民の足として利用され、広島市の復興を支えてきました。しかし、道路網の整備が進むに つれて、貨物・旅客数は減少し始め、ついに昭和47年に旅客列車は廃止され、1日1往復 のみの貨物専用線となったのです。
 そして昭和61年9月30日、宇品線は、92年の歴史に終止符を打ち、記念としてここに形 を残すことになりました。

   広島県広島港湾振興局

陸軍桟橋跡記念碑

 宇品に陸軍運輸部が置かれ、一筋の石積み の突堤が沖に向かっていた。広島の市民はそ れを陸軍桟橋と呼んだ。そうして日清戦争か ら太平洋戦争にかけて、兵らはこの突堤から 沖に待つ輸送船に乗り移り、遠い大陸と島と の戦場に送り出されるのが例となっていた。 彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻ら なかった。
 戦争が遠く過ぎ、あたりは埋め立てなどに より姿を変えたが、今、埠頭の片側の岸にわ ずかにかっての面影をとどめる。
 わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟 橋があったことの記憶を受け継がなければな らない。
   一九九八年(平成十年)十二月 近藤芳美 記
   陸軍桟橋跡記念歌碑建立委員会

陸軍桟橋跡(六管桟橋)

南区宇品海岸の宇品波止場公園に残されている明治22年に築港された宇品港は、日清・日 露戦争を契機に、昭和20年まで主に旧陸軍の軍用港として使用されてきました。その中心 的役割を果たしてきたのが、明治35年に軍用桟橋として建設されたこの六管桟橋です。こ の六菅桟橋は戦争中は多くの兵士を送り出した一方、多数の無言の遺骨の帰国を迎え、広 島の歴史を見守ってきた貴重な証言者です。また、築港当時の唯一の施設であり歴史的、 建築的にも高い価値があります。
戦後は、海上保安庁の船舶の係留に利用されてきましたが、1万トンバースの増設に伴い、 護岸としてのその姿を残しています。宇品港の名称が改められて広島港と呼ばれるように なってからも、ずっとその歴史を刻んできたこの桟橋は広島の歴史そのものです。桟橋の 石積みを当時の護岸として保存し一部を展示しています。

六管桟橋       広島県広島
港湾振興局(設置)

日清戦争凱旋碑(平和の塔)

日清戦争凱旋碑(Wikiペディア)

宇品凱旋館建設記念碑

関連サイトへ / 写真
宇品凱旋館建設記念碑
皇紀二千六百年 昭和十五(1940)年二月十一日     陸軍中将 田尻昌次書

平和の礎(全国強制抑留者協会・広島県支部)

関連サイトへ
       ありし日に
           君と遊びし
         砂の浜
      こゝに建つなり
       平和の
          祈り

「港」の歌碑

歌詞
 私達が、小学校時代を連想するごとに。口ずさまれる国民唱歌の一つに「空も港も夜は晴れて・・・」の懐かしいメロディーがあります。
 しかし、この歌がいつ、どこで、だれによって作られたものか忘れられ、いうなれば流浪の歌の運命をたどっていました。
 ところが、昭和四十八(1973)年八月、全日本海員組合の宮城伸三が前任地博多から広島に赴任され、 ある日、宇品の居酒屋で、たまたま同席した一老人から、この歌は宇品を歌ったものであ ることを聞かされました。
 そこで、同氏は広島といえば、原爆の都市という暗いイメージを与えているが、この明るく生き生きとした情緒あふれる名曲を掘り起こし、広島のイメー ジ・チェンジをはかるならば、今後、広島のこども達の情操教育と、海事思想普及に貢献することができるだろうと考え、地元海運関係者や有志に呼びか けました。一同これに賛意を表し、いろいろ調査研究の結果、作詞は旗野十一郎、作曲は吉田信太(いづれも故人)場所は宇品暁橋(通称めがね橋)であ ることを確かめました。
 その結果、数多くの人々の協力により、昭和五十(1975)年七月二十一日、海の記念日のよき日に地元小学生等の手によって除幕され、ただちにこの歌碑を広島県に寄贈され ました。
 こうして国民に親しまれました「港」の歌は流浪の旅を終え、生まれ故郷の宇品港に帰ることができました。

○歌碑は船の煙突をかたどった円筒型のコンクリート製(高さ三・九米)歌詞の四十八文字は、地元三小学校の四年生による一人一字の手書きであり「港」の字は港湾管理者宮沢 県知事の自筆です。
○歌碑の周囲の「いかり」は呉市、内外運輸(株)の寄贈です。
○歌碑の裏面の「歌碑建立発起人一同」の文字は、建立の推進役をした全日本海員組合中国支部長の宮城伸三に書いてもらいました。
○建立関係の書類、除幕のアルバム、資料は末永く記念するため、ここに保存してありますから御閲覧下さい。

明治天皇御駐蹕趾碑

関連サイトへ
            明治天皇御駐蹕趾

            昭和十四年一月建之
            陸軍中将 松田巻平敬書

陸軍運輸部船舶司令部

船舶司令部 広島原爆と船舶司令部・暁部隊(Wikiペディア)

旧陸軍糧秣支廠建物(郷土資料館)

宇品陸軍糧秣支廠(Wikiペディア)  関連サイトへ
 現在広島市郷土資料館として利用されているこ の建物は、明治44(1911)年竣工の旧陸軍糧秣廠 のかんづめ工場を改修したもので、外壁は当時の ものがそのまま保存されています。 (広島)市内に残る他の明治時代の煉瓦造建築に 比べ、外壁の控壁や庇部分の細かな造形に工夫が 見られ、重厚な美しさを感じさせます。煉瓦は現 在のものよりやや大きめで、すべて国産のものを 用いており、長辺と短辺を交互に積む「オランダ 積み」で積まれています。また、屋根は今回の改 修で鉄板を銅板に改めているものの、当時の「瓦 棒葺」の工法で復元されているまど明治時代の洋 風煉瓦建築を理解するうえで貴重なものです。
 明治27(1894)年の日清戦争の際、広島は、同年 の山陽鉄道の開通や宇品港の存在などを背景に、 大陸派兵基地として重要な役割を果たしました。 これを直接のきっかけに、広島は軍事都市として の性格を強め。明治31(1898)年の軍用水道を手 始めに、市内に数多くの軍施設が建設されました 。この建物もそのうちのひとつです。
 また、現在の建物中央部には、原爆の風圧によっ て曲げられたものと思われる2本の鉄骨が保存され ています。原爆投下直後には被災者の臨時収容施 設にもなっていたこの建物は、被爆の歴史を語る 貴重な証人でもあります。

昭和62年3月 広島市教育委員会

広島陸軍糧秣支廠倉庫

宇品陸軍糧秣支廠(Wikiペディア)
 
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