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臨時帝国議会仮議事堂跡

1894(明治27)年日清戦争のとき、宇品(うじな)港が兵站基地となった関係もあって、明治天皇(第122代:1852-1912)は、広島に大本営を進められることとなりました。 広島城内の第五師団司令部の庁舎を行在所と定めて、同(1894)年9月15日ここにおうつりになりました。それにともなって政府の高官や要職が来広しました。 その後、翌(1895 )年4月戦争が終結して、天皇が帰京されるまでの約七ヶ月余、広島市は事実上日本の首都となりました。この間、同(1895)年10月18日から7日間の会期で、臨 時帝国議会第七議会が広島に召集されました。そのため貴族院、衆議院の仮議事堂がこのあたりに仮設されました。

野砲兵第五連隊跡

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野砲兵第五聯隊は 明治十一年四月 広島に創設された
日清戦争から太平洋戦争に至るまで幾多の戦争に国家民族の興隆発展を祈念しつつ出動し一身を犠牲にした
昭和二十八年 終戦とともに数々の思い出を残し 六十九年の歴史の幕を閉じた
ここに 聯隊跡碑を建立し 亡き戦友と戦禍に斃れた多くの人々の御霊を慰める

昭和五十九年十二月 建立
平成六年八月 改刻
元野砲兵第五聯隊 生存者一同

英霊にささぐ(護国神社)

          父慕い
          母の育み
            幾春秋
          深き恵みに
          われはこたえん

          昭和五十三年十月吉日
          主唱 広島市遺族会青年部

第十二旅団望部隊、第六十四師団開部隊 献納(護国神社)

中支派遣独立混成第十二旅団望部隊は昭和十四年四月を以って江蘇省蘇州に於て編成せら れ同十八年六月揚州に於て第六十四師団開部隊に擴充改編されたが旧第五師団管下の将兵 を主軸としている本部隊は昭和二十年八月終戦を迎えるまで揚子江湘江を中心として江北 湖南等の各地に轉戦し赫赫たる戦果を挙げたのである但この間将兵合せて三千九百七十四 柱の戦歿者を出したことは洵に哀惜に堪えない次第である茲に部隊生存者一同は遺族と相 謀り戦後の物故者をも併せてその功績を称え華表一基を建立して永くその偉功を顕彰し以 て後世に伝えるものである。

   昭和四十八年一月吉日
   元 望部隊・開部隊 生存者一同
   文学博士 池田末利 撰
   桂園 井上政雄 書
   施工者 加計町 吉村政一石材店

軍馬の碑(山吹会)

歩兵第十一連隊跡

歩兵第11連隊(Wikiペディア)

大本営跡

広島大本営(Wikiペディア)

広島陸軍幼年学校跡

広島陸軍幼年学校(Wikiペディア)

馬碑(輜重兵第5連隊)

輜重兵第5連隊
   昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵営
   西南太田川沿いに建立された。

   昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆
   投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士
   が犠牲になった。
   その中で、馬碑は熱風を受けながらも
   唯一残った。

   昭和五十七年、廣輜会 原隊の戦友会
   により、隊跡馬碑と表示、復元された。

自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。 軍馬は日本各地より徴発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、輓、駄馬 として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
 戦場に於いて、四肢の蹄に鉄をつけて保護され、車を輓き、また鞍上に 百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
 蹄鉄は「馬の命」、行動中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、 次の休止時に予備鉄を装着した。
 戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷 やし看病し続けた。兵にとって馬は正に戦友であった。  数次の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除 と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員出来なかった。

初年兵時代、「馬 三百円、お前等は一銭五厘で幟をたててやってくる!」 と古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章 にある星の数で見分けるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
 尚 、馬は「活兵器」として大事に扱われた。

戦後六十年を経て、戦友は八十路を越え、健在者僅少となり、茲に輜重兵 第五聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、 戦友の浄財と靖国神社の助成に依り、付帯施設を新設した。

平成十八年
元中支派遣
第三十九師団輜重隊
第百三十二師団輜重隊

有富部隊戦友会

ノモンハン事件参加部跡記念樹

ノモンハン事件(Wikiペディア)
          ノモンハン事件参加部隊

          歩兵第七十一聯隊
          野砲兵第十三聯隊
          輜重兵第二十三聯隊

          昭和五十二(1977)年五月二十二日建之

中国軍管区司令部 防空作戦室

中国軍管区司令部跡(Wikiペディア) / 関連サイトへ
爆心地から約790メートル

広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。

写真説明:被爆後の防空作戦室周辺、 1945年10月 米軍撮影

中国軍管区司令部 第59軍司令部跡

中国軍管区司令部跡(Wikiペディア)
爆心地から約400~1,300メートル

本土決戦に備え、1945(昭和20)年6月には広島城本丸に中国軍管区司令部・第59軍司令部が置かれ、広島城内堀の外周には、隷下の補充隊や師団司令部などが存在していた。各部隊の建物は1945(昭和20)年8月6日、原爆の爆風により瞬時に崩壊し、火災に包まれて灰燼(じん)に帰した。

写真説明:広島城とその周辺部 撮影・米軍
 
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