陸軍桟橋跡記念碑
宇品に陸軍運輸部が置かれ、一筋の石積み
の突堤が沖に向かっていた。広島の市民はそ
れを陸軍桟橋と呼んだ。そうして日清戦争か
ら太平洋戦争にかけて、兵らはこの突堤から
沖に待つ輸送船に乗り移り、遠い大陸と島と
の戦場に送り出されるのが例となっていた。
彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻ら
なかった。
戦争が遠く過ぎ、あたりは埋め立てなどに より姿を変えたが、今、埠頭の片側の岸にわ ずかにかっての面影をとどめる。
わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟 橋があったことの記憶を受け継がなければな らない。
一九九八年(平成十年)十二月 近藤芳美 記
陸軍桟橋跡記念歌碑建立委員会
戦争が遠く過ぎ、あたりは埋め立てなどに より姿を変えたが、今、埠頭の片側の岸にわ ずかにかっての面影をとどめる。
わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟 橋があったことの記憶を受け継がなければな らない。
一九九八年(平成十年)十二月 近藤芳美 記
陸軍桟橋跡記念歌碑建立委員会
広島県送出元満州開拓青年義勇隊物故者をまつる碑
碑文
この碑は生還者と遺族並びに広島県 市町村 各小中学校その他有志の協力によ って建てられた 広島県から出た約五千人の義勇隊員のうち諸君ら 八百六十一人は 満州の地で短 い生がいを終わった 1945(昭和20)年敗戦によって激変する環境の中で 人々は さまざまな死を迎えたが 諸君の死ほど この時代の歴史に刻み込まれなければな らぬ死は少ないだろう あの頃 青年というよりむしろ少年の幼さで親と別れ 彼 の地の土になろうとしての当然のさだめであったとしても 諸君のような若い身で そのさだめをもったことが僕らには悲しい 死んだ諸君 民族の融和は いま新しい時代の息吹をもってとなえられようとして いる この時代に僕らは思う「生きるとは何かを創ること」だと 僕らは これか ら自分で自分を創り 再びかかることの起らないために 民族融和の道を歩もうと 思う。
昭和35(1960)年3月20日 広島県の生還者一同しるす
この碑は生還者と遺族並びに広島県 市町村 各小中学校その他有志の協力によ って建てられた 広島県から出た約五千人の義勇隊員のうち諸君ら 八百六十一人は 満州の地で短 い生がいを終わった 1945(昭和20)年敗戦によって激変する環境の中で 人々は さまざまな死を迎えたが 諸君の死ほど この時代の歴史に刻み込まれなければな らぬ死は少ないだろう あの頃 青年というよりむしろ少年の幼さで親と別れ 彼 の地の土になろうとしての当然のさだめであったとしても 諸君のような若い身で そのさだめをもったことが僕らには悲しい 死んだ諸君 民族の融和は いま新しい時代の息吹をもってとなえられようとして いる この時代に僕らは思う「生きるとは何かを創ること」だと 僕らは これか ら自分で自分を創り 再びかかることの起らないために 民族融和の道を歩もうと 思う。
昭和35(1960)年3月20日 広島県の生還者一同しるす
「港」の歌碑
歌詞
私達が、小学校時代を連想するごとに。口ずさまれる国民唱歌の一つに「空も港も夜は晴れて・・・」の懐かしいメロディーがあります。
しかし、この歌がいつ、どこで、だれによって作られたものか忘れられ、いうなれば流浪の歌の運命をたどっていました。
ところが、昭和四十八(1973)年八月、全日本海員組合の宮城伸三が前任地博多から広島に赴任され、 ある日、宇品の居酒屋で、たまたま同席した一老人から、この歌は宇品を歌ったものであ ることを聞かされました。
そこで、同氏は広島といえば、原爆の都市という暗いイメージを与えているが、この明るく生き生きとした情緒あふれる名曲を掘り起こし、広島のイメー ジ・チェンジをはかるならば、今後、広島のこども達の情操教育と、海事思想普及に貢献することができるだろうと考え、地元海運関係者や有志に呼びか けました。一同これに賛意を表し、いろいろ調査研究の結果、作詞は旗野十一郎、作曲は吉田信太(いづれも故人)場所は宇品暁橋(通称めがね橋)であ ることを確かめました。
その結果、数多くの人々の協力により、昭和五十(1975)年七月二十一日、海の記念日のよき日に地元小学生等の手によって除幕され、ただちにこの歌碑を広島県に寄贈され ました。
こうして国民に親しまれました「港」の歌は流浪の旅を終え、生まれ故郷の宇品港に帰ることができました。
○歌碑は船の煙突をかたどった円筒型のコンクリート製(高さ三・九米)歌詞の四十八文字は、地元三小学校の四年生による一人一字の手書きであり「港」の字は港湾管理者宮沢 県知事の自筆です。
○歌碑の周囲の「いかり」は呉市、内外運輸(株)の寄贈です。
○歌碑の裏面の「歌碑建立発起人一同」の文字は、建立の推進役をした全日本海員組合中国支部長の宮城伸三に書いてもらいました。
○建立関係の書類、除幕のアルバム、資料は末永く記念するため、ここに保存してありますから御閲覧下さい。
しかし、この歌がいつ、どこで、だれによって作られたものか忘れられ、いうなれば流浪の歌の運命をたどっていました。
ところが、昭和四十八(1973)年八月、全日本海員組合の宮城伸三が前任地博多から広島に赴任され、 ある日、宇品の居酒屋で、たまたま同席した一老人から、この歌は宇品を歌ったものであ ることを聞かされました。
そこで、同氏は広島といえば、原爆の都市という暗いイメージを与えているが、この明るく生き生きとした情緒あふれる名曲を掘り起こし、広島のイメー ジ・チェンジをはかるならば、今後、広島のこども達の情操教育と、海事思想普及に貢献することができるだろうと考え、地元海運関係者や有志に呼びか けました。一同これに賛意を表し、いろいろ調査研究の結果、作詞は旗野十一郎、作曲は吉田信太(いづれも故人)場所は宇品暁橋(通称めがね橋)であ ることを確かめました。
その結果、数多くの人々の協力により、昭和五十(1975)年七月二十一日、海の記念日のよき日に地元小学生等の手によって除幕され、ただちにこの歌碑を広島県に寄贈され ました。
こうして国民に親しまれました「港」の歌は流浪の旅を終え、生まれ故郷の宇品港に帰ることができました。
○歌碑は船の煙突をかたどった円筒型のコンクリート製(高さ三・九米)歌詞の四十八文字は、地元三小学校の四年生による一人一字の手書きであり「港」の字は港湾管理者宮沢 県知事の自筆です。
○歌碑の周囲の「いかり」は呉市、内外運輸(株)の寄贈です。
○歌碑の裏面の「歌碑建立発起人一同」の文字は、建立の推進役をした全日本海員組合中国支部長の宮城伸三に書いてもらいました。
○建立関係の書類、除幕のアルバム、資料は末永く記念するため、ここに保存してありますから御閲覧下さい。