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陣歿 軍人・軍馬 追悼の碑/騎兵第五連隊跡

表面
陸軍中將 鈴木荘六 書
陣歿 軍人・軍馬 追悼の碑

裏面
騎兵第五聯隊創立以来各戰役ニ於ケル
戰病歿軍馬ヲ追悼スルノ餘リ西伯利出征
凱旋ノ秋建之

大正九(1920)年十一月十八日
騎兵第五聯隊将卒一同

野砲兵第五連隊跡

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野砲兵第五聯隊は 明治十一年四月 広島に創設された
日清戦争から太平洋戦争に至るまで幾多の戦争に国家民族の興隆発展を祈念しつつ出動し一身を犠牲にした
昭和二十八年 終戦とともに数々の思い出を残し 六十九年の歴史の幕を閉じた
ここに 聯隊跡碑を建立し 亡き戦友と戦禍に斃れた多くの人々の御霊を慰める

昭和五十九年十二月 建立
平成六年八月 改刻
元野砲兵第五聯隊 生存者一同

第十二旅団望部隊、第六十四師団開部隊 献納(護国神社)

中支派遣独立混成第十二旅団望部隊は昭和十四年四月を以って江蘇省蘇州に於て編成せら れ同十八年六月揚州に於て第六十四師団開部隊に擴充改編されたが旧第五師団管下の将兵 を主軸としている本部隊は昭和二十年八月終戦を迎えるまで揚子江湘江を中心として江北 湖南等の各地に轉戦し赫赫たる戦果を挙げたのである但この間将兵合せて三千九百七十四 柱の戦歿者を出したことは洵に哀惜に堪えない次第である茲に部隊生存者一同は遺族と相 謀り戦後の物故者をも併せてその功績を称え華表一基を建立して永くその偉功を顕彰し以 て後世に伝えるものである。

   昭和四十八年一月吉日
   元 望部隊・開部隊 生存者一同
   文学博士 池田末利 撰
   桂園 井上政雄 書
   施工者 加計町 吉村政一石材店

軍馬の碑(山吹会)

歩兵第十一連隊跡

歩兵第11連隊(Wikiペディア)

馬碑(輜重兵第5連隊)

輜重兵第5連隊
   昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵営
   西南太田川沿いに建立された。

   昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆
   投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士
   が犠牲になった。
   その中で、馬碑は熱風を受けながらも
   唯一残った。

   昭和五十七年、廣輜会 原隊の戦友会
   により、隊跡馬碑と表示、復元された。

自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。 軍馬は日本各地より徴発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、輓、駄馬 として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
 戦場に於いて、四肢の蹄に鉄をつけて保護され、車を輓き、また鞍上に 百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
 蹄鉄は「馬の命」、行動中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、 次の休止時に予備鉄を装着した。
 戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷 やし看病し続けた。兵にとって馬は正に戦友であった。  数次の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除 と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員出来なかった。

初年兵時代、「馬 三百円、お前等は一銭五厘で幟をたててやってくる!」 と古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章 にある星の数で見分けるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
 尚 、馬は「活兵器」として大事に扱われた。

戦後六十年を経て、戦友は八十路を越え、健在者僅少となり、茲に輜重兵 第五聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、 戦友の浄財と靖国神社の助成に依り、付帯施設を新設した。

平成十八年
元中支派遣
第三十九師団輜重隊
第百三十二師団輜重隊

有富部隊戦友会

ノモンハン事件参加部跡記念樹

ノモンハン事件(Wikiペディア)
          ノモンハン事件参加部隊

          歩兵第七十一聯隊
          野砲兵第十三聯隊
          輜重兵第二十三聯隊

          昭和五十二(1977)年五月二十二日建之
 
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